【0225】続・古典を読む 古典的な本を読む 1 of 3

21-読解する技法

前回まで“古典を読む”と題して、いくつかの古典を挙げてきました。

『論語』『スッタニパータ』『古事記』『聖書』など、
どれも1000年2000年と読み継がれてきたものばかりです。

さて、そんなに長く読まれていないと古典ではないのか、という疑問が出てきます。

なぜそんな疑問が出てくるのかというと、
もっと身近にあったような気がするからです。

 

例えば、我妻榮『民法講義』という本があります。

下の画像のような物です。

新品は見かけなくなりました。古書です。

上の画像をクリックしてうっかり注文してしまうと、価値を知らぬ人にはゴミにしか見えないような経年でボロボロの物が届きます。慎重に、よい書店で買いましょう

そんな我妻『民法講義』も、世に出たのは大東亜戦争前後のことで、まだ100年~半世紀を過ぎたところ、
『論語』『スッタニパータ』『古事記』『聖書』などの1000年2000年に比べればまだまだです。

100年~半世紀を過ぎたところではありますが、
“多くの民法の本が、「この本を読者が当然に読んでいる」ことを前提”にし、
“実務法曹にとっても、民法といえば、この民法講義シリーズを中心とした「我妻民法学」とコンメンタールの『注釈民法』(有斐閣)が中心的文献”である、といわれています。
(“”内はいずれも<愛知県弁護士会法科大学院委員会編 『入門 法科大学院』p203>)

 

この我妻『民法講義』について書かれた“この本を当然に読んでいることを前提にし”の言い回し、どこかで見たように思い、探しました。
『聖書』について同じように書かれた次の文章を見つけました。

哲学に限ったことではない。芸術については宗教がことのほか強く関わっている。キリスト教を知らずに、バッハのすばらしさに感応することはできない。聖書の内容を知らずにダリの絵は理解できない。ベケットやグリーンの文学はなおさらである。
人間が行う文章表現のあらゆる形態はすでに聖書の各文書において用いられている。西洋の詩の頽廃さがわかるのは宗教を知っている者だけである。とにかく、ほとんどの大きな文化の根底に宗教がある。もっと正確に言えば、聖書が前提としてある

白取春彦 『勉学術』p103-104 下線は(日野)による>

ダリの絵を理解するために『聖書』を読んでいることが前提であるように、法律家にとっては我妻『民法講義』を読んでいることが前提となっています。

規模の大小はあるかもしれませんが、理屈は同じです。

我妻『民法講義』は世に出てから100年弱の物ですが日本の法律家にとっては、『論語』『スッタニパータ』『古事記』『聖書』などの古典に匹敵する、重要な書物となっています。

 

加藤『読書術』でも同様のことが書かれています。

しかし古典というものは、なにも二千年以上も前の本でなければいけないというわけではありません。もう少し新しい本が古典であってもいっこうにさしつかえない。現に世界の人口のたいへん大きな部分は、比較的最近の本を古典として扱っていました。私が言いたいのは、マルクスエンゲルスレーニンの書いた本のことです。(…)世界が二つに分かれていたということであり、その一方の世界の中では、19世紀に書かれたマルクス・エンゲルスの本が古典として通用していたということです。(…)いま私たちが生きている世界の全体を、あまり大きな偏見なしに、あまり大きな誤解もなしに、どうにかわかろうと思えば、最小限度の条件の一つとして、少なくともマルクスの本のなかで大切な部分を、いくらかていねいに読んでみることが必要だろうということになります。そういう必要が、二つに分かれていた世界のこちら側、つまり社会主義でなかった側にあるのです。(…)これは私たちが日本人として世界を客観的に公平に理解してゆくために大切なことの一つでしょう。

加藤周一 『読書術』p53-55 下線は(日野)による>

19世紀に書かれたマルクス・エンゲルスが、ある地域・ある人達には20世紀後半には古典となっていたということです。

 

(日野)が挙げた我妻『民法講義』や、加藤『読書術』が挙げるマルクス・エンゲルスを抽象化すると、

“ある時”“ある場所”“ある属性の人”にとっては“比較的”新しいものでも古典となる

ということになると思います。

–次回につづく–

21-読解する技法


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