【0226】続・古典を読む 古典的な本を読む 2 of 3

21-読解する技法

前々回【0224】までは『論語』『スッタニパータ』『古事記』『聖書』など1000年2000年と読み継がれてきたものばかりを古典として取り上げてきましたが、
前回は、そんなに長く読まれていないと古典ではないのか、例えば法律家にとっては聖書に匹敵する我妻榮『民法講義』があるように、“ある時・ある場所・ある属性の人にとっては比較的新しいものでも古典となる”ということを書きました。

 

加えてもうひとつ、古典に準ずるものがあります。

 

加藤『読書術』では“古典≒ゆっくり読むもの”とされています。
その反対に“ゆっくり読むもの≒古典”とも言っています。

そして、ゆっくり読むものとして教科書が挙げられています。

古典を読むにはゆっくり読まなければならないでしょう。しかし、ゆっくり読まなければならないのは古典に限りません。(…)全国の高校生は鉢巻をして、同じ本を繰り返し、繰り返し、たぶん、相当にゆっくりと読んでいるはずです。その本の十中八九までは、古典ではなく、また古い本でさえもなく、せいぜいここ2、3年のうちにできあがった1ダースばかりの教科書か参考書です。

加藤周一 『読書術』p57 下線は(日野)による>

 

現代においてはいわゆる教科書というものも古典であるといわれると、なるほどという想いとともに、教科書への偏見も思い出されます。

小学校・中学校で新年度のはじめにどっさりと渡された、さほど面白くもない本

という印象です。

ですが、加藤『読書術』でいう“教科書”はもう少し広い意味で使われています。

高校生に限らず、ほとんどすべての技術の領域では、基本的な知識の全体を網羅した教科書に類するものがあります。それには、同じ技術の領域でも、いくつかの種類があるでしょうが、その5、6冊を集めて比較してみれば、大部分におよそ同じことが書いてあります。

加藤周一 『読書術』p58 下線は(日野)による>

“基本的な知識の全体を網羅した”“教科書に類するもの”があるといわれると、

法律の領域では、法学部生がいうところの“基本書”というところでしょうか。

なるほど、それであれば、業務上やむを得ず帰りの電車で読み始めた本の面白さに自宅の最寄り駅を乗り越してしまったときのような知的興奮というか、
最寄り駅を乗り越しているので確実に時間は損しているはずですがそれでもそんな素晴らしい本に出会えた喜びのほうが勝つような、そんな好意的な印象も思い出されます。

 

先の引用には続きがあります。

高校生に限らず、ほとんどすべての技術の領域では、基本的な知識の全体を網羅した教科書に類するものがあります。それには、同じ技術の領域でも、いくつかの種類があるでしょうが、その5、6冊を集めて比較してみれば、大部分におよそ同じことが書いてあります。ですから、いちおう権威があるとされている教科書ならば、あまり注意して選ぶ必要がありませんまして、2冊の教科書を読む必要はまったくない。よい技術者になるためには、一般によくできているという評判の教科書5、6冊のなかから、任意の一冊を抜いて、その一冊を繰り返し読んで、暗記しないまでも、ほとんどそれに近い程度まで知りつくせば、それで充分でしょう。

加藤周一 『読書術』p58 下線は(日野)による>

知りつくすためにはゆっくり読まなければならない、
ゆっくり読める数は限界がある、
数が多くなるとゆっくり読めない・ゆっくりと一冊を繰り返し読む

 

これは、ギリシャ思想を紹介するために“仮にプラトンをギリシャ思想の代表とした”のと同じ発想と思われます。

ギリシャ思想の代表的な思想家がだれであるかを論じることは、ここではできませんし、そもそもそういうことを論じて、一人の思想家や一冊の本を見つけだそうとすることに、どういう意味があるかも疑わしい限りです。しかし、さしあたっての便宜のため、仮にそれをプラトンによって代表させることにしておきましょう。古典というものは、あまり数が多くなれば、その意味を失うように思われます。だれもたくさんの古典をゆっくり読むことはできません。しかし私の読書法では、古典とはゆっくり読むための本なのです。

<加藤周一 『読書術』p49 下線は(日野)による>

–次回につづく–

21-読解する技法


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