【0158】読解力の向上に資すること、その手がかり  7 of 8

21-読解する技法

–前回までのあらすじ–

“全体としての大きさの程度をおおまかに把握”することを「風呂敷を広げてみる」ということとして、風呂敷のひとつめは「読む」の位置づけ、

「読み」は「読み書きそろばん」という3つのなかのひとつと位置づけることもでき、「読み書きそろばん」の意味を調べ、考えた結果「理解し、(理解した上で)考えて、(考えた自分の主張を)伝える」という“社会生活をする上で最低限必要な、コミュニケーションの技能”を現しているではないか、というところに辿り着きました。

 

分析の基本に立ち返って「大きさを考える」ところから始めたのは、

  • 「読解する技法」といっても「読解」それ自体は目的ではなくあくまで手段のひとつである、
  • (とはいえ)「理解し、考えて、伝える」という位置づけのなかでは、「伝える」の前段に「考え」が必要で、「考え」の前段に「理解」が必要、だから「理解」のための手段である「読解」は重要である

と考えたからです。

【転】読解を考える手がかり

ひとつめの風呂敷「「読む」の位置づけ」が、ずいぶんと長くなってしまいました。
ふたつめの風呂敷「読解を考える手がかり」を広げてみます。

ここでいう「風呂敷を広げる」は【0154】で挙げた「何事によらず、内部論理の緻密さや形式的な整合性を論ずる前に、全体としての大きさの程度を大まかに把握する。全体を把握した上で優先順位をつける、という考え方」のことです

 

「読解を考える手がかり」となると、まず素直に、現代文読解が挙げられます。

現代文読解というのは、つまり小中高の“国語”のことで、高校の頃には“現国”と呼ばれていたもの、を指しています。

【0146】でも表明したように、(日野)も国語現代文は悪い点をとることもなく、勉強してもしなくても結果に変わりがない科目である、という印象をもっていました。
なので、本腰をいれて勉強をした覚えがありません。
それからやがて20年経とうかといういま、初めて小中高の国語に真剣に取り組んだかもしれません。

そんな新鮮な目線で、小中高の国語を紹介します。

 

ここでは方向性を書くにとどめます。
小中高の国語の授業で学んだことは2つに分けられます。

その2つというのは、漢字や文法を含む知識分野と実際の作品を読む読解分野です

国語には漢字・語句・文法・古典などの知識分野と、論説文・小説・随筆などの読解分野があります。

永山冨美 『やさしくまるごと中学国語』p2>

これさえもいまさらなのですが、言われて見ればそうです。
確かにその2つを教えられました。もう少し正しく言うと、その2つを“分離して”教えられました。

きっと教える側からすると当然なのでしょうけど、いまになって気づきました。
知識分野は読解のためにあるのだ、と。
もっと早く、もっと明確に言って欲しかった。いや、きっと当時の先生は“言っていた”のだと思いますが、その真意が受け側の(日野)には“伝わっていなかった”のだと思います。

 

知識分野は読解のためにあるのだということを理解すると、当時散々苦しんだ“xx活用”のようなもの(知識分野の例に挙げられた、“漢字・語句・文法・古典など”のなかの文法の問題)を学ぶことも納得できます。

「そういうことなら文法だってもうちょっと真剣に勉強したのに」
というのが(日野)の本音です。

そう、現国の文法問題などが、読解のためのものだと判かれば、その文法知識が自分にとって必要なものか否かを判断することができます。
必要なものか否かを判断できれば、必要なものは必死になって勉強します。(裏返すと、小中高の(日野)には文法問題をできるようになる必要性が理解できなかったために必死になるほどには勉強しなかった、ということです)

 

まず、そういう視点:現国の文法問題などが読解のためのものだと今更ながら理解した30台後半のビジネスマンの視点で、小中高の国語をおさらいしていくのが読解を考える手がかりのひとつめです。

 

 

さて、ここにこの先おさらいをしていくことを宣言をした小中高の国語というのは、(日野)を含めほとんどの人にとって次の前提にあるものであると思います。

①a 日本語が母国語である

②a (母国語である日本語を「国語の授業」として)受けてきた側である

 

①aと②aをそれぞれ裏返してみるとどうでしょう。

まず、②aの“受けてきた側”の反対に“授ける側”である教師の目線=②bがあります。

②b教師の目線になって考えてみると、その授業の相手は義務教育の範囲で日本人の小中高生であることが多数でしょうが、一方で、日本に留学してきた外国人が授業の相手であることもあるはずです。
つまり、②b教師の目線からすると、“受けてきた側”を、母国語話者(主に日本人=①a)と外国語話者(主に外国人=①b)に分けることができます。

 

“授ける側”である先生向けの本を探してみると、①a母国語話者(日本語を母国語とする先生)が①b外国語話者(日本語以外を母国語とする生徒)に対して②b教えるための本がたくさんあり、①a母国語話者が①a母国語話者に②b教えるための本(いわゆる“国語”の教員向けの本)というのはあまり見かけませんでした。

 

そこ(①b外国語話者に対して②b教える)には“(母国語話者が)自然に身に付けた”のとは異なる、(“テクニカルな要素”が強い)日本語の学び方/習得の仕方が存在するはずです。

“自然に身につけた”と “テクニカルな要素”については、次の引用に挙げる『ちいさい言語学者の冒険』にある、小さい「っ」の発音の例がわかりやすいです。

ところでこの小さい「っ」、私たちが「促音」ともよぶ音っていったいどういう音なんでしょう。まさか、「つ」って小さい声で言うんでしょ、とは誰も思っていないでしょうが…。(…)日本人の大人に聞いてもあまり役に立たないかも。だって使いこなすぶんにはまったく不自由していなくて、この「っ」っていう音をどう発音すればいいのかなどという疑問に直面したことがないですからね。こんなときは、そう、外国人に聞いてみましょう!
日本語の授業で、「っ」ってどう習いましたか?

次の音の構えをしながら、つまりスタンバイしながら1拍分の長さをおくことです。」

――知ってました? そんな難しいことしているって。
われわれ日本語母語話者の場合は、わざわざそんなこと教わってないのに、誰にとってもそういうものとして身についているということが、考えてみるとすごいですね。正しく発音できない人は誰もいないのに、じゃあどんな音ですかと聞いたら答えられない。母語話者って、えてしてそういうものです。

広瀬友紀 『ちいさい言語学者の冒険』p28 下線は(日野)による>

–次回につづく–

21-読解する技法


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