【0157】読解力の向上に資すること、その手がかり  6 of 8

21-読解する技法

–前回までのあらすじ–

“全体としての大きさの程度をおおまかに把握”することを「風呂敷を広げてみる」ということとして、風呂敷のひとつめは「読む」の位置づけ、

「読む」はこの四技能のひとつというほかにどういうグループがあって、そのとあるグループのなかで「読む」はどのように存在するのかを考えることで「読む」の本質に迫ろう、という営みです。

 

「読み」は「読み書きそろばん」という3つのなかのひとつと位置づけることもできそうだとなり、「読み書きそろばん」の意味を調べてきました。

『日本語大シソーラス』で「そろばん」から「そろばんがたつ」、さらに「知力」とつながり、「知力」から「知恵」につながりました。

「知恵」は“事の道理や道筋をわきまえ”その上で“正しく判断する”ということができ、このなかの“事の道理や道筋をわきまえ”は「理解する」、“正しく判断する”は「理解したことを前提に考える」それぞれ言い換えすることができることから、

「そろばん」には“(読み聞きして理解した上で判断するために)考える”という意味がありそうだと仮定しました。

 

この仮定から、読み書きそろばんというのは、

「理解し、(理解した上で)考えて、(考えた自分の主張を)伝える」という“社会生活をする上で最低限必要な、コミュニケーションの技能”を現しているではないか

というところに辿り着きました。

この新しい「読み書きそろばん」=「理解し、考えて、伝える」ということを、イメージ図で表すとこうなります。

読むというのは理解するための手段のひとつであって、さらに理解するというのはそれを受けて考えた上で相手に自分の主張/考えを伝えるための前段/前工程であるということです。

 

さて、ここに至ってようやくメインの主張に辿り着きました。

ひとつめの風呂敷「「読む」の位置づけ」でいいたかったのはここ=前回(0156)のことで、(日野)が考える「読み書きそろばん」の新しい意味=「理解し、考えて、伝える」ということです。

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回りくどく、くどくどと、読むという行為の位置づけの話をしてきました。

なぜ位置づけの話にこだわったのか。
言い換えると、四技能では「読む」が重要、「読む」なら現代文読解、とわかり切っている中で、その王道にまっすぐ進まずに回り道をしたのはなぜか、ということです。

 

ひとつは、このような位置づけの中でこそ読解は重要であるということの強調です。

読解する技法といって、ひたすら文法上の論点を挙げていくやり方もあるかもしれません。しかし(日野)がいま追っているのは、読解のための読解ではなく、相手の主張を理解するための読解です。
「理解し、考えて、伝える」という一連の流れのなかの理解する手段のひとつとしての読解する技法です。
そうすると、読解というのは理解をするための手段であり、
理解するための一手段である読解というのは(主張する相手への返答である(日野)自身の主張を)考える前提となる行為であるといえます。

相手への返答を「伝える」前段として自身の主張を「考える」、その「考える」という目的のために相手の主張を「理解する」、このとき「理解する」ための手段が2つあって一方は「聞く」でもう一方が「読む」です。

「読解する技法」といって、読解を掘り下げていくわけですが、それ自体が目的ではなくあくまで手段のひとつなのです。

 

新しい「読み書きそろばん」=「理解し、考えて、伝える」のなかの「理解」のための手段としての「読解」について考えていくという宣言です。

 

位置づけにこだわった理由のもうひとつは、後段にあんこ詰めるためにはそれぞれに前段ができていなければならないということです。
新しい「読み書きそろばん」=「理解し、考えて、伝える」のなかの「理解」のための手段としての「読解」について考えていくわけです。そのときに「伝える」の前段に「考えて」いなければならず、「考える」前段に「理解」していなければなりません。

だからこそ「理解」のための手段である「読解」は重要だということです。

「読解」が「理解し、考えて、伝える」というコミュニケーションの技能の中で最重要であるということを理解してもらいたかったということです。

 

たとえば、何らかの方法で話術や作文が世界で一番上手く巧くなったとして、おそろしいくらいにおもしろい文章をブログで公開していると、とある雑誌から“「現代の読み書きそろばん」というテーマで寄稿ください”と依頼が来たとします。これ、おそらく作文の能力だけでは乗り越えられません。ちがうのは、自分が思うことを書く と 与えられたテーマで書く ということ、その違いです。

 

いくらほど話術や作文の能力を鍛えたとしても、他人から与えられたテーマに対応するには力不足です。

話術や作文の能力による書き話す前段に、与えられたテーマに対しての考えを相当程度の幅/深さで持つことが必要であって、考えがしっかりしていないとどれほど巧みに話をしても空虚な音の響きでしかなくどれほど巧みに作文したとしても過飾症で中身のない文章が出来上がるだけです。

そうかそれであれば、と クリティカルシンキングのような思考法を学んだとします。

思考法だけをどれほど鍛えたとしても、その前段となる状況のインプットが狂っていれば答えも狂います。規範定立が誤りの三段論法では論理的に正しくてもまちがった答えが、さも正しいかのように、導き出されるのと同じことです。

 

状況の把握をまちがえば、いくら正しい考え方で考えてもまちがった答えが出る ということ、

思考する前段には状況の把握/置かれた状況を理解することが必要だということです。

そして、理解するためには「読む」か「聞く」かしか手段がありません。「読む」と「聞く」では、より速くより沢山の情報を集められるのは「読む」です。

より正確でより簡便なのも「読む」です。

 

分析の基本に立ち返って「大きさを考える」ところから始めたのは以上の理由からです。まとめると、

  • 「読解する技法」といっても「読解」それ自体は目的ではなくあくまで手段のひとつである、
  • (とはいえ)「理解し、考えて、伝える」という位置づけのなかでは、「伝える」の前段に「考え」が必要で、「考え」の前段に「理解」が必要、だから「理解」のための手段である「読解」は重要である

ということです。

 

–次回につづく–

21-読解する技法


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