【0141】なぜ読解する技法か 2 of 8
–前回までのあらすじ–
いまから10年程前のこと、当時(日野)は金銭的にとても貧しく、家に帰ってもすることもなく、やることと言えば近所の大きな本屋で立ち読みするくらいのことしかありません、
大きな欲求はありながら叶わない日々。毎日不完全燃焼でたいへん大きな抑圧感と自分への失望を感じている、そういう状況で成毛「本を10冊同時に読め!」に出会い、現実逃避、もあってひたすら本を買って読みました。
そのような環境の(日野)が出会った成毛「本を10冊同時に読め!」に、次のように書かれています。
“
もし庶民から脱したいなら、今までのような「みんなで同じでいい」という考えを捨てるべきだ。みんなが食べるものは食べず、みんなが読む本は読まない。それを徹底すればいい。
<成毛眞 『本は10冊同時に読め!』>
“
このあらすじの最後の引用部分、「もし庶民から脱したいなら~みんなが読む本は読まない」というところに強い衝撃を受けました。
それまでうっすらと感じていたことが、書籍という媒体に明示されている。
妄信的に、その意見を(自分の考えのように)受け容れました。
そのようにして考えが変わったからといって、人付き合いはそれまでのものを急激に変えることはできません。人付き合いは急激に変えられないとしてその一方で、「みんなが読む本は読まない」ということは(日野)ひとりで完結して誰にも影響がないので、すぐに実行できます。
「みんなが読む本は読まない」となるとそれでは「みんなが読む本でなければ何を読むか?」となりますが、これは何でもいいわけです。
同じく成毛『本は10冊同時に読め!』には“あらゆるジャンルの本を”
、“大量に読め”
と書かれています。“読書に目的を持つな”
とさえ書かれています。
「それでいいのだ」と思って、気が楽になりました。
そんな出会いから10年超、続けてきて習慣となったいま振返ると、確かに人生が変わりました。
当時は資格試験の受験予備校のパンフレットを見てそれを鵜呑みにして、「試験に合格して資格さえ取れば年収1千万円なのだ」と夢を見ていました。ところがいまとなっては、当時めざしていた難関国家試験に合格したところで、受験予備校のパンフレットに書かれている当該資格で年収1千万円は、無理だとわかります。
なぜそう変わったのかというと、それはたくさんの本を読みながら、多くの経験をしてきたことで、当該難関国家試験といえどもその試験で問われることの範囲は狭いものであることや資格取得者にも実務の遂行能力に大きな差があることが判ったからです。
なので、本を読むという行為をしていなければ、見識が広がるということはなく、
いまだに難関国家試験を受験しては落ちてということを繰り返し、夢を語り希望はあれど実行がない≒なんの役にも立たない、
そんな10年程前の当時のままの生活を続けていたように思います。
その一方で、成毛「本は10冊同時に読め!」にある、“本は捨てない、借りない、貸さない”
を実現できなさそうな環境になりつつあります。
–次回につづく–