【0255】年こそ薬なれ おまけ

92-年こそ薬なれ

前回まで、周年を契機に、直近1年半の投稿を振返りました。

そのように振返りをしていると、そのたびに顕在化してくるのが、

「このブログ続ける意味があるのか」という問いです。

 

おそらく、普段は問いの形にはならないものの、

奥底で渦巻いている感情なのでしょう。

続ける意味、なんのためにこのブログを書いているのか?

 

その問いに対して、これまでの答えは、前回に書いたとおりです。

知識・経験がちがうと、同じモノを見ても違うモノが出てきます。(・・・)いま書いていることを数年後に見直してみると、同じテーマでより発展的な内容で書けるかもしれない。(・・・)より発展的な内容の文章を書けるようになった(日野)がいつかの未来にいるかもしれません。

 

未来の(日野)がよりレベルの高い内容で書けるようになっている前提で、

未来の(日野)が書くべきテーマを今から提供し続けていくことで、このブログは価値があると胸を張って言えるときがくるのでないか。

より高いレベルとなっているはずの(日野)が書くべきテーマを提供していることが、現在のこのブログの価値である

これまでの答え、と行ったのは、
そんな理由づけが必要なのか、という想いが生まれたからです。

 

きっかけは、
我が社で、新規事業を任されている中堅社員に対して、社長が言っていた言葉です。

「本当にそれをやりたいと思っているのか?情熱があるのか?義務工程でしてくれているなら、もうやめよう。」

 

情熱なんて、と思われるかもしれませんが、(日野)はそういうことを言うひとは好きです。

事業をやっている、その事業を提供するのも受けるのも人間のはずです。

熱量というのは、伝わるもので、やる気の無い人とやっていても、たのしくない。
そうすると、事業自体がうまくいかない。

主体となる人の情熱が、たくさんの人を惹きつけて、事業は進んでいくのです。

 

このときの社長の言葉を、己のブログに充ててみたときに、どうか。

「本当にこのブログをやりたいと思っているのか?情熱があるのか?義務工程でしているなら、もうやめよう。」

シンプルにそう問うてみると、義務工程とは思っていません。

もっとこうしたいなあ、と思っていることはありながら、入り込めていないというのが現実です。

入り込めていないというのは、具体的には、
「読解する技法」の「技法」的な話、もっと深掘りしたいという想いがあります。
研究して、論文にしたいくらいの熱量はありながら、入り込めていないのが現実です。

入り込めない理由は、仕事や育児で忙しいからなのか、別の趣味に対する情熱が上回っているからなのか、

どちらも要因だとしても、このブログに対する情熱は決して尽きていない、のは確かです。

だから続けるのです。

続ける理由は、それで充分だなあと、思い直しました。

 

–完–

92-年こそ薬なれ


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