【0143】なぜ読解する技法か 4 of 8
–前回までのあらすじ–
10年程前に出会った成毛眞「本は10冊同時に読め!」にある“「超並列」読書術”が習慣となったいま振返ると確かに人生が変わったが、同書にある“本は捨てない、借りない、貸さない”は無理がでてきた。蔵書を推量するとざっくり1600冊、これは具体的には3畳もあれば不自由なく置いておけるくらいの量、3畳ならそれほどの困難なく用意できる範囲ですが、育ち盛りの子どもたちを抱えていると半畳すら惜しい。そうなると、何の意思決定もなく残っている本を手放してもよいのではないか、そんな気持ちを初めて持ちました
本を捨てるということを初めて考えたときに、まずではどのような本を捨てるのか、その捨てる基準というのはどういうものだろうかと考えました。
何を、どのようにして捨てるか
たとえば、
- 原則として買った本は捨てない。ただし捨てる判断をした本はその限りでない
- 原則として買った本は捨てない。ただし1年超触れていない本は捨てる。
- 原則として読んだ本は捨てる。ただしリスト化は(印象的な文やひと言感想付き)する
- 原則として読んだ本は捨てる。ただし残す判断をした本はその限りでない
などが挙げられます。
基準をつくるとなるとどうしても機械的なものになってしまいます。
捨てる捨てないを都度判断するのは大変な重荷となるものの、機械的に捨てる捨てないの判断をしようとすると、なんらかの客観的な基準が必要となって、そうなると、先に“人生を変えた”とまで書いた成毛「本は10冊~」も(最初に読んで以来ほぼ10年ぶりに取り出したので)1年超触れていない=捨てる候補に入ってしまいます。
そんな捨てられていたかもしれない、成毛眞「本は10冊同時に読め!」を10年ぶりに読み返してみてどうであったかというと、
断定的な書き方をされているので、いまとなっては抵抗を感じる箇所もあり、すべて鵜呑みにすることはできないとして、やはり振返るとこの本が起点となって読書量が変わり、思考/志向/嗜好が変わったことはまちがいないので、捨てたくはない、手許に残しておきたいと思うわけです。
この本が主張していることが、“「超並列」読書”ということだけであれば、別の本にも“「同時並行読書術」で、大量読書を実践する<齋藤孝『大人のための読書の全技術』>”
というものがあり、こちらのほうがマイルドな書きぶりで万人とはいいませんがより多くの人に受け容れられる内容です。
より多くの人に受け容れられるという意味で成毛「本は10冊~」よりよい本はあって、その他にももっとよい本がたくさんあることでしょう。
そのようにして他にもっとよい本があるとは思うものの、実際に読み返してみるとやはりとても「重い」のです。
文庫本ですから「重い」というのは質量ではありません。
精神的な比重というのでしょうか、手に入れるまでの経緯も含めてその本の価値なのでしょうか、思い出は現実より美しいということでしょうか、
物としてその本が持つ実力以上に美化されて(日野)の中に在るわけです。
そのような経緯、思い出、思い入れというものがある以上、簡単に手放すわけにはいきません。
このような重さを持つ本、他の例では、資格試験のテキスト・問題集も思い出や思い入れというものがこびりついています。
この成毛眞「本は10冊同時に読め!」に出会った頃に取得を目指していた資格試験のテキストをはじめとして、そのメインとなる資格試験を受験して落ちてを繰り返す中で迷いが生まれ、迷走しながら種々の資格試験を目指しては断念をし、たまにはがんばって受けては落ちてということを繰り返してきました。
それらのテキストや問題集というのは、いまいま役に立つことはありません。見返すこともありません。
じゃあ、捨ててもいいようなものですが、そうもいきません。
怨念(?)のようなものがこびりついているのか、なんせその表紙を見ただけで当時早朝や夜中に眠いながら必死になって机に向かっていたことを思い出してしまって、どうにも手放すことができません。
これは本が持つ魔力のようなものでしょうか。
このようなものがある結果、何らかの形式的な基準を持って捨てようとしても(成毛「本は10冊~」や過去に取得を目指して頑張って向き合った資格試験のテキスト・問題集のような本があって)単純には捨てられません。
それらを捨てるということは心を捨てるということに等しい。大袈裟なようで、現実にそのような本がいくつも思い当たります。
–次回につづく–