【0219】古典を読む 2 of 4

21-読解する技法

何か困った時に頼りになる古典的な本について、

前回は「古典」「古典的」という言葉の意味と、

そんなことを調べていたらみつけた『だから古典は面白い』という本の広告文に挙げられている古典の名前を見ながら、

「そんな感じだけどちょっとちがう」というところで終わりました。

 

今回から(日野)に古典がどういうものが教えてくれた加藤周一『読書術』を中心に古典とは具体的に何かを掘り下げていきます。

 

さて、早速ですが、引用します。

本の読み方には、たしかになるべくおそく読むという法があります。(…)そういう読み方をするときに、読むべき本は古典に限られます。「おそく読め」というのは、「古典を読め」というのと同じことになり、また逆に、「古典を読め」というのは、「おそく読め」というのと同じことになるでしょう。

加藤周一 『読書術』p39 下線は(日野)による>

なにをするにしても効率のよさを問われるなかで“なるべくおそく読むという法”が説かれています。そして、“なるべくおそく読む法を使うのは古典だけ”さらに“古典はなるべくおそく読むべき”と言っています。

なぜおそく読むのか。おそく読むべき古典とは何なのか。

次の引用箇所を見てみましょう。

むかしの人は、「読書百遍、意自ずから通ず」と言いました。(…)しかしそれは、一面の真理で、本を読むときには、いつ、どこでも、どんな本でも、おそければおそいほどよい、というわけではないでしょう。むかしの人が、百ぺん読んで、意おのずから通ずるのを待っていた本は、いったいどういう本だったのでしょうか。たぶん「四書五経」ことに『論語』だった。アランは、なにを繰り返し読んでいたのでしょうか。プラトンや、ヘーゲルや、スタンダールだったようです。

加藤周一 『読書術』p38-39 下線は(日野)による>

ひとつめ、「なぜおそく読むのか」に対しては「読書百遍、意自ずから通ず」というところでしょうか。急ぐな、落ち着いて何度も読めばそのうち解ると。

おそく読む、の“おそく”には読む速さだけでなく、一度でなく何度もということ、時間の長さのことを言っていると思います。

もうひとつ、おそく読むべき古典とは何なのか、に対しては、まずは『論語』が挙げられています。

 

『論語』がなぜ古典なのか、次の引用箇所に書かれています。

しかし古典とはなんでしょうか。たとえば、『論語』が古典であるというのは、長いあいだ中国で続き、その後日本にも引きつがれた個人崇拝のために違いありません。(…)しかし宗教の教祖の言葉だけが古典なのではありません。『論語』にしても、それを宗教的な文献としてでなく、歴史的な一つの書物としても読むことができます。そういう立場から見れば、『論語』は孔子と弟子たちとの対話の断片を前後の脈絡なく集めた本です。(…)多くはあまりに断片的なために、その意味を正確にとらえることが、いまではほとんど不可能に近い。(…)その場合のわかり方は、いわば『論語』のなかに「読む人の人生にとって大切な知恵を発見するにいたる」というような意味でのわかり方で、そのことと、孔子自身が、むかしどういう意味でその断片的な言葉を語ったかということがわかるのとは、まったく別の二つのことになります。

加藤周一 『読書術』p40-41 下線は(日野)による>

長くなりますが引用を続けます。

大ざっぱにいえば、徳川以後の日本に支配的であった哲学は、儒教であったといってさしつかえないと思います。そして、宋の理論をはじめ、それ以後のすべての儒教者の本は、多かれ少なかれ、いずれも『論語』を踏まえているといってよいのです。『論語』が古典であるのは、何世紀にもわたって中国を支配し、また日本でも大きな影響を早くから及ぼして、徳川時代に支配的となったあらゆる思想の根本に『論語』があるからです。『論語』を読むこと、それを自分なりに理解するということは、したがって中国思想を自分なりに理解すること、また日本の徳川時代――しかし徳川時代のものの考え方はいまの日本にも残っていますから、また明治以後の日本でのものの考え方の全体を、自分なりに理解するということになるでしょう。

加藤周一 『読書術』p42 下線は(日野)による>

何故に『論語』が古典であるのか、それは、
あらゆる思想の根本に『論語』があるからです。
あらゆる思想の根本に『論語』がある結果、『論語』を読みそれを自分なりに理解するということは日本でのものの考え方全体を自分なりに理解するということになるからです。
だから『論語』は古典なのだと、言っています。

“ものの考え方を理解することができる”ことが古典の条件のようです。

 

この加藤『読書術』では、このあともいくつか著者の考える古典が列挙されていきますが、そのいずれも“日本でのものの考え方を理解することができる”という観点から選ばれています。

–次回につづく–

21-読解する技法


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