【0220】古典を読む 3 of 4
引続き、加藤『読書術』から、具体的に何を古典というのかを見ていきます。
前回、『論語』が挙げられていました。
なぜ『論語』を古典として挙げるのか、その理由から、“ものの考え方を理解することができる”ことが古典の条件のようだと指摘しました。
加藤『読書術』では、このあとも“日本でのものの考え方を理解することができる”という観点から選ばれた著者の考える古典が列挙されていきます。
古典として第一に挙げられた『論語』は、日本においては特に江戸時代に幕府が正式な学問として朱子学を採用したところからより広く深く浸透していきますが、それ以前の日本では仏教が中心だったようです。<蔭山克秀 『蔭山のセンター倫理』p190参照>
加藤『読書術』でも次のように書かれています。
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もちろん日本のものの考え方に大きな影響を与えたのは、儒学だけではありません。徳川以前には仏教がありました。仏教には論語の場合のように、一冊で教祖の言葉をまとめたというような本はありません。たくさんの経文があり、宗派によって、どの経文がいちばん大切であるか、意見が分かれているくらいです。しかし無数の経典のなかで、日本の文化と日本人のものの考え方に強い影響を与えてきた経典の数は限られています。たとえば般若経、法華経といったようなものです。
<加藤周一 『読書術』p46 下線は(日野)による>
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『論語』の次に挙げられる古典は仏教の経典です。
より具体的には般若経と法華経が挙げられています。
般若経といっても複数あり、そのなかの一つ『般若心経』は、短くてとっつきやすい反面、非常に難解です。わかる人にはよいのでしょうが、前提となる知識が多すぎて理解するのは困難です。((日野)は『般若心経』で止まってしまい法華経は検討に至ってません。)
行き詰ってではどうしたのか。(日野)は白取をよりどころにして、スッタニパータを読むことにしました。
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書店にはうんざりするほど仏教関係の書物が並んでいるし、般若心経の解説書はいつも売れている。
しかし、般若心経は有名な経典ではあるが、そこにゴーダマ・シッダールタ(ブッダ)の言葉が書かれているわけではない。般若心経はブッダの死後数百年たってから学僧が仏教思想のダイジェストとして書いたものである。
ブッダの言葉は最古経典として知られているスッタニパータにまとめられている。これは『ブッダのことば』(岩波文庫)として文庫本になっている。厚いが、内容は重くはない。要するに、まじめな生き方をしないと悟れないと書かれている。
その平易さは、般若心経に明らかに認められる古代哲学とは大違いである。平易すぎて眠くなるかもしれないが、とりあえず読んでおけば本当の仏教がわかる。つまり、日本化されていない生粋の仏教が見えてくるのである。<白取春彦 『勉学術』p110 下線は(日野)による>
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経典らしさはありませんが、シンプルですし、語り諭すスタイルは『論語』と同様に読みやすいです。
さらに、仏教以前から日本に根付いていたのが八百万の神々です。
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また、いうまでもなく神道があります。また『古事記』の伝説や、各時代の日本人にいつも愛読されてきた『万葉集』や『源氏物語』のような文学書もあります。そういうものの全体を一括して「日本の古典」といえるかもしれません。そういう古典を読むことが、日本の歴史や文化やものの考え方の構造をよくわかるために必要なことはたしかだろうと思います。
<加藤周一 『読書術』p46 下線は(日野)による>
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『古事記』に加えて『万葉集』『源氏物語』も挙げて「日本の古典」という括り方をなされています。(日野)にはいまのところ『古事記』だけで精一杯です。
“『万葉集』や『源氏物語』のような文学書”
とありますが、『古事記』も充分に文学的です。
ここまででは最低限、
ザ・古典『論語』
仏教の経典(のかわり)として『スッタニパータ』
日本の古典として『古事記』
の3冊を挙げておきます。
–次回につづく–